無頼の群
妻を殺され,復讐の鬼と化した牧場主(グレゴリ-・ペック)が、4人の悪漢を追い求める旅に出る.この映画は執念の追跡行と4人を一人また一人と処刑していくショッキングな決闘シーンの連続で、強く記憶に残る。
グレゴリ-・ペックは,黒づくめの服装で,寡黙で非情な西部男を好演し、かっての「拳銃王」での孤独な,何かにとりつかれたようなガンマン振りがしぶい。
「無頼の群」の主人公は,ほぼ同時期に作られた「捜索者」のイーサンと,その非情さゆえに,しばしば対比させられる。しかし、「捜索者」のエンディングはある意味では,中途半端な甘さ(一応家庭に戻るし,ジェフリー・ハンターは結婚しそう、ウェインは再び旅に出るという暗示的ラストシーンにとどまっている。)が指摘されるのに対し「無頼の群」の終わり方はなんだろう!。まだ観てない方のために,詳しくは書けないが、この暗いムードは好き嫌いが分かれよう。ただ,強烈なインパクトがあることは間違いない。
それはともかく、私は,初めてこの映画を観た時は,ただただ,4人との決闘シーンに酔いしれたものです。ひざまづき命乞いする男を射殺する.ロープを自在に操り、木の枝に逆さ吊リなどなど従来の西部劇にない新鮮な感覚(サドではないけど)だった。
この4人の役者がまたすごい。リー・ヴァン・クリーフ,アルバート・サルミ,スチーブン・ボイドそしてヘンリ-・シルヴァと重量級の脇役がそろっています。
またこの映画は後のクリント・イーストウッド西部劇に大きな影響を与えた事が明らかにみられる点でも重要でしょう。
投稿:J.W. [2001年1月6日 23時36分43秒]
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コメント
>Ms. Tenderfoot 様
せっかく疑問にご回答していただいたのに、お礼が何年も遅れて申し訳ございません。
妻殺しの犯人を執拗に追い、残酷なまでの殺し方をしていたペックが4人目の男に真相を知らされた途端、追うことをパッタリ止めてしまったので、不思議で仕方ありませんでした。
そうですか。真犯人は既に死んでいたのですね。
それにしたも真実を知らされた時の、ペックの「俺はなんてことをしてしまったんだ」という表情は、ほんの数秒の演技でしたけれども、ペック自身が自我自賛してるとおり、見事な演技だったと思います。
投稿: marineflat | 2009年12月10日 (木) 23時13分
1958年のグレゴリー・ペック主演、ヘンリー・キング監督作品ですから「拳銃王」のコンビですね。これまで書き込みがなかったのが不思議です。
牧場主のジム・ダグラス(G・ペック)は、妻を犯して殺し、金を奪った四人組の悪漢を追うこと半年、国境に近いリオ・アリバの町に来ますが、四人組は銀行強盗の際の殺人罪で捕まり、翌日が絞首刑で、町民が絞首台を作っています。ジムは保安官に頼んで牢内の犯人たちを見せて貰いますが、犯人たちには、ジムが何者で、なぜ自分たちを見に来たのか分かりません。
四人組はビル(スチーブン・ボイド)、エド(アルバート・サルミ)、アルフォンゾ(リー・バン・クリーフ)、ルハン(ヘンリ・シルバ)といった顔ぶれですが、その夜、仲間のシムズ氏(ジョー・デ・リタ)の手引きで、保安官に重傷を負わせて脱獄、逃走します。デ・リタという俳優は「三馬鹿大将」の一人だそうですが、ここでは悪賢くて凶悪な人物ですね。
保安官補が町民の追跡隊を組織して出発し、ジムは翌朝これを追って参加。復讐の執念に燃えるジムはいつの間にか追跡隊を取り仕切っていて、まずアルフォンゾ、ついでエドを殺しますが、ビルとルハンは追いつかれる前に国境の川を越え、メキシコに入ります。保安官補たちは越境するわけに行かず追跡を諦めますが、ジムはかまわず川を渡り、酒場でビルを撃ち、さらにルハンが妻子の待つ家に帰り着いたのに迫ります。
ペックの役は「白鯨」のエイハブ船長か、でなければ逆に「レッド・ムーン」のインディアンのようですね。さらに「牛泥棒」の雰囲気もあります。ジョーン・コリンズがジムの以前の恋人で、リオ・アリバの町に来た彼と再会し、一件落着後には彼と結ばれるのでしょう。
町の教会の神父(アンドルー・ダガン)とジムは旧知のようですが、この教会がとても宏壮で、内部がヨーロッパの宮廷礼拝堂か何かみたいに色鮮やか、おまけに多人数の聖歌隊までいて、西部の田舎町にこんな教会があるなんて思えません。復讐を神に委ねず、自分で行おうとするのは正しいか、ということもテーマのようだから教会の場面があるのでしょうが、この教会はどうも現実離れに思えます。
[2008年6月1日 20時46分4秒]
投稿: ピーター・ポッター | 2009年12月10日 (木) 23時11分
ペックが’50年代に撮った西部劇には結構世評の高いものが少なくないと思いますが、J・スチュワートがA・マンと組んだ一連の西部劇が“西部劇に新風を吹き込んだ”と賞賛されているのに対して、“ペックも頑張ったがそこまでは行かなかった”と云うようなことが、昔「スクリーン」誌などに書いてあったのを憶えています。理由を書いてなかったので、何を以って両者に差をつけているのか分かりませが、本数の違いだけではなさそうでした。
恐らく、この映画にしても「拳銃王」「廃墟の群盗」にしても、“暗く” “すっきりしない” “陰々滅々とした” およそ西部劇らしくない印象に加えて、ペック演じる主人公が西部劇のヒーローとしては首をひねりたくなるような人物ときては、いくら “従来の伝統的な西部劇とは違う、新しい面白さがある” “以降の西部劇に少なからず影響を与えた” などの要素はあったとしても、“新風”と呼ぶには余りにもネガティブであることが、そしてそれが果たして本来西部劇が必要とするものだろうかと云うことが、ジミーの西部劇ほどには評価しないとの声があがる主因ではないかと思っていますがどうでしょう。
話は変わりますが、私「拳銃王」の欄に“ペックにはもう少し銃の練習をして欲しかった”と書きましたが、その代表が実はこれなんです。まず、L.V.クリーフを殺す場面、撃鉄も起こしてない銃のシリンダー部分を手のひらで持ってます。親指を上に乗せてネ。あれで相手に銃を突きつけてるつもりでしょうか。「クリーフ、何してる。今から抜いても十分間に合うぞ」と応援したくなっちゃますよ。も1つ、S・ボイドを殺す場面。珍しく(と云うかこれくらいしか見たことありません)ワンカットで抜きます。が、抜いてはみたもののやはり撃鉄を起こしきれず(と見えます)カットを変えて発砲すると云う、思わず目を覆いたくなるようなシロモノでした。ここまで来ると編集の責任も問いたくなりますね。
昔、萬屋錦之介の代表作「宮本武蔵5部作」の製作発表を聞いたとき「錦之介に出来るか?」と思いました。と云うのは彼の殺陣は腰が引ける癖があって当時の時代劇スターの中でも下手な方だったし、何より東映の歌舞伎的チャンバラは内田吐夢監督のリアリズムにそぐわないじゃないですか。錦チャンと武蔵はどう考えても重ならなかったからです。ところが完成した映画は観てビックリ、スクリーンの中にいるのは、まるで武蔵が乗り移ったかのような “剣豪”錦之介でした。それまで身についたチャンバラの錆びを捨ててリアルな闘いとしての剣技を身につけるまでの努力が偲ばれました。武蔵が終わった後の作品を観るとやっぱり腰が引けてますから、いかに武蔵に集中していたかが分かります。
私、いろんなところでガン捌きが鮮やかに見えないのを俳優の所為だけのように云ってますが、本当にそう思っているわけでは勿論ありませんよ。演出や編集である程度はカバーできるわけですからネ。現に殆どの決闘シーンは、悪人が銃に手を掛ける、カットが変わって主人公が撃つと云うパターンですよね。ただ、“ワンカットで出来ない”あるいは“とにかく下手”と云うのは俳優個人の属性ですからね。”あれで撃てるわけないよ”と云うのでは困りますし“早射ちの役演るんだったらそのくらい努力して欲しい”と云うのが私の気持なんです。要は自覚と根性、その役にどれだけ打ち込んでいるかの証明ですよ。今、それが感じられるのはコスナーくらいじゃないでしょうか。
[2006年9月18日 9時0分3秒]
投稿: ウエイン命 | 2009年12月10日 (木) 23時08分
後味の悪い西部劇、しかし一部の人には評価が高いというのが一般的でしょうか。
一人また一人…愛する妻を殺し血に狂う無頼の者共を倒して行く男ひとり!西部劇に新境地を開いた傑作! 公開当時の広告の惹句です。
新境地とあるようにこの頃西部劇は変化しょうとしていました。単なる勧善懲悪劇でなく、悩む主人公や人間の影や悪人にも喜怒哀楽の感情がある等大人の鑑賞にも耐えるドラマを模索していたようです。私も同感ですがこの映画が成功していたかと云えば疑問に思います。偽情報と思い込みから妻殺しでは無実だが元々は死刑囚の脱獄囚を3人も殺してしまう。法の上では正義を行ったヒーロー。
しかし心は休まらず神に許しを請う。許しを請う者は神は許すと聞きましたが。この辺りの法律上の正義と罪と宗教上の罪を持ってきた皮肉を感じさせる結末が私にはよく分かりません。
グレゴリー・ペックが脱獄囚を順繰りに殺して行く場面。草むらに待伏せするリー・V・クリーフを追跡隊で唯一見つけるペックに復讐心の強さを感じさせる。この時リー・V・クリーフは助けてくれと懇願しているのをあのペックが構わず撃ってしまいます。
次は森で待伏せするアルバート・サルミに対し馬を左右に走らせて狙いを外させ、投げ縄で捕まえそのまま枝に逆さま宙吊りする。この場面が作品中最も迫力がある。
大将格、スティブン・ボイドは酒場で早撃ちで殺る。ビデオで分かったのですが、ペックはボイドより先に抜いて撃つ。単にテクニック上そうなってしまったのか、作品の人物の役上(復讐が第一義)そうなのかよく分かりませんが。
爬虫類男、ヘンリ・シルバが最後に逃げ帰った家族の前ではちゃんと夫、父の顔になっているのには驚きました。流石役者。
他に何時もは悪役のアンドリュー・ダガンがゴッツイ神父になって何となく場違い。
高校生のこの頃は何時でも腹を空かしていましたが、取分け2本立て、3本立ての映画を見ている間は空腹でした。ジーン・エヴァンスが小屋でジュージュー音をたてて焼いていたベーコン・エッグの美味そうだった事。映画と食べ物と云うと豪華な料理より必ずこの場面を思い出します。
[2004年9月15日 20時39分37秒]
投稿: 老レンジャー | 2009年12月10日 (木) 22時57分
marineflat様:
------ストーリーが入ります-------
この映画でペック扮するジムダグラスの妻を殺し、金を奪ったのはジムの牧場の近隣に住む、ジョン バトラー という金鉱堀りの男でした。
結果的に彼は、例の4人組の一人に撃たれて死んでしまうのですが、ジムは最後まで、この男は誰をも傷つけた事の無い男だ、と信じていたのです。
(”Poor devil never harmed anybody in his life.")
ですから、4番目の男から、真相を聞かされた時の驚きの表情に、取り返しのつかない「思い違い」をしていた自分へのやるせなさが見て取れます。
ペック自身も彼の回想のなかで、あの場面の演技は「俳優なら誰でも、ひとつや二つは自分で持っている、たとえ他から評価されなくとも最高の演技をした瞬間と自分で誇れる場面」と言っています。 この映画、導入部が良いだけに、最後の部分がちょっと、、ですよね。
多分、あの牧師が一番悪人みたいな顔してるから、彼が「祈り」なんて言ってもしっくり来ないのが原因かもしれません。
[2004年4月6日 20時52分8秒]
投稿: Ms. Tenderfoot | 2009年12月10日 (木) 22時53分
30年以上も前テレビで観た記憶があります。懐かしいです。
3人との決闘シーンまでは詳しく憶えていませんが、一人は命乞いまでしたんですよね。それなのに無情にも。
4人目の男は何故ペックを殺さなかったのか。殺す理由がないと言っていたような気がしますが、自分の命を狙われ、悪党とはいえ、3人の仲間を殺されているのにね。妻殺しに関しては殺された3人は無実。ペックより人間ができていたんですかね。この男は。
悪党とはいえ無実の男を殺してしまったことに気付いたときのペックの表情が印象的でした。
ところで真犯人は誰なのか。映画で暗示されていましたっけ?
>J.W.さん
ストリーの大部分をかきこんでしまってすみません。
[2001年4月3日 10時25分14秒]
投稿: marineflat | 2009年12月10日 (木) 22時50分
J・W・さん・・・せっかくのご推薦でしたので、今日「無頼の群」を再見しました。
双葉十三郎氏も、一口に「我々もスッキリしない」と評してます通り、私もスッキリしませんでした。得をしたのはヒロインのJ・コリンズだけですか・・・。しかし、よくよく観ますと、名監督の冴えた演出で見事な作品だと思います。58年にG・ペックは「大いなる西部」も撮っていますネ。監督ヘンリー・キングは、50年に、この作品と雰囲気の似た「拳銃王」を撮ってます。「無頼の群」の様な内容には、良い女性がでないと、やり切れない訳ですが、イギリス産のハリウッドグラマー「ピラミッド」(55)などで脚光をあびたジョーン・コリンズを起用したあたり、並の作品ではないことが良く分かります。白のブラウス黒のパンツ姿がシンプルでとてもセクシーでした・・・・。
[2001年1月14日 16時58分4秒]
投稿: グリーンベイ | 2009年12月10日 (木) 22時47分